p_district’s blog

ゴミのようなきっかけで始めた20代男の自己満ブログ

環境問題と当事者意識

地球環境問題を根本的に解決するためには、ボトムアップの道を取る他ないという確かな実感がある。

「エコ」や「SDGs」のような「地球への気遣い」のスローガン化は「先進」国の生活水準の維持に対する免罪符と化しているし、イノベーションによるエネルギー効率の改善も、気休めの延命措置にしかならないだろう。結局のところ、社会の構成員が各々、身を切る覚悟で過剰な富の消費をやめ、慎ましい生活に切り替えていくしか道はない。

では、そのためにはどのような訴えかけが必要なのか。

今日、「東大入試 至高の国語「第二問」」という本を読んだ。冒頭に紹介されていた1985年の第二問は、金子みすゞの「積もった雪」「大漁」の二編の詩から作者の見方・考え方を述べる作文問題。筆者の解説には「存在することの罪」に目覚めることが述べられていた。それを読んでいて長年の疑問に一つの糸口が見えた気がした。

「高い生活水準の維持」は、結局のところ、「存在することの罪」を強めていることに他ならないのだ。この世界に場所を取っていることから罪は無限に湧いて出てくる。良い場所を取っているならなおさら、それ自体が重罪となりうる。その事実と謙虚に向き合うこと。原罪の無限性に目が開かれたとき、無限の償いが行われる。消極的な「免罪符」アプローチは必ず未来を食いつぶし、破綻する。もっと積極的に、償いの行為自体を目的化していく必要がある。

結局のところ、社会の中の個々人を動かして社会を持続可能なものにする梃子はある種の強い宗教的な直観に当てるしかないのかもしれない。