p_district’s blog

ゴミのようなきっかけで始めた20代男の自己満ブログ

青葉市子と自分

車の中で、1stアルバム「剃刀乙女」と6thアルバム「qp」を聴き比べた。初期は毒や棘で張りつめていた歌声が「qp」では大らかに開かれている。

自分が世俗的な苦しみに悶えていたとき、一番そばに置いていた音楽は「剃刀乙女」の中の「路標」だった。調和しない音波で満ちた外の世界を毒や棘で遮断し、そうして切り離した空間を自分だけの歌で満たし、自我の濃度を高め、そうして自分を保っていた。そうした行為をするために、傍らに路標を置くことがどうしても必要だった。

やがてシェルターの中で歌がこだまし、段々と歌がそれ自体の広がりや深まりを豊かにしてゆき、自律的に蠢く空間を為したとき、体は歌の空間に全て委ねられ、その空気を通して鳴る笛、「音楽から伸びている管」になっていく。進むべき方向、その答えは自ずと生まれてくる。空間と自分の交叉するところに、答えという出来事が起こる。そうして足は標なき路を進んでゆき、やがて重力や地面の摩擦からも放たれ、qpとなり羽ばたく。

qpは、青白い顔をした死神の周波数に共鳴する部分があるように感じる。自我の明け渡しは、自我の放棄に限りなく近く、疑似的な死とも呼べるものかもしれない。生の密度を濃くして行ったとき、円環が一周して死に漸近する、そんな危うげな意味の重なり合いは自分を永遠に惹きつけ続けるqpの神秘。