p_district’s blog

ゴミのようなきっかけで始めた20代男の自己満ブログ

環境問題と当事者意識

地球環境問題を根本的に解決するためには、ボトムアップの道を取る他ないという確かな実感がある。

「エコ」や「SDGs」のような「地球への気遣い」のスローガン化は「先進」国の生活水準の維持に対する免罪符と化しているし、イノベーションによるエネルギー効率の改善も、気休めの延命措置にしかならないだろう。結局のところ、社会の構成員が各々、身を切る覚悟で過剰な富の消費をやめ、慎ましい生活に切り替えていくしか道はない。

では、そのためにはどのような訴えかけが必要なのか。

今日、「東大入試 至高の国語「第二問」」という本を読んだ。冒頭に紹介されていた1985年の第二問は、金子みすゞの「積もった雪」「大漁」の二編の詩から作者の見方・考え方を述べる作文問題。筆者の解説には「存在することの罪」に目覚めることが述べられていた。それを読んでいて長年の疑問に一つの糸口が見えた気がした。

「高い生活水準の維持」は、結局のところ、「存在することの罪」を強めていることに他ならないのだ。この世界に場所を取っていることから罪は無限に湧いて出てくる。良い場所を取っているならなおさら、それ自体が重罪となりうる。その事実と謙虚に向き合うこと。原罪の無限性に目が開かれたとき、無限の償いが行われる。消極的な「免罪符」アプローチは必ず未来を食いつぶし、破綻する。もっと積極的に、償いの行為自体を目的化していく必要がある。

結局のところ、社会の中の個々人を動かして社会を持続可能なものにする梃子はある種の強い宗教的な直観に当てるしかないのかもしれない。

青葉市子と自分

車の中で、1stアルバム「剃刀乙女」と6thアルバム「qp」を聴き比べた。初期は毒や棘で張りつめていた歌声が「qp」では大らかに開かれている。

自分が世俗的な苦しみに悶えていたとき、一番そばに置いていた音楽は「剃刀乙女」の中の「路標」だった。調和しない音波で満ちた外の世界を毒や棘で遮断し、そうして切り離した空間を自分だけの歌で満たし、自我の濃度を高め、そうして自分を保っていた。そうした行為をするために、傍らに路標を置くことがどうしても必要だった。

やがてシェルターの中で歌がこだまし、段々と歌がそれ自体の広がりや深まりを豊かにしてゆき、自律的に蠢く空間を為したとき、体は歌の空間に全て委ねられ、その空気を通して鳴る笛、「音楽から伸びている管」になっていく。進むべき方向、その答えは自ずと生まれてくる。空間と自分の交叉するところに、答えという出来事が起こる。そうして足は標なき路を進んでゆき、やがて重力や地面の摩擦からも放たれ、qpとなり羽ばたく。

qpは、青白い顔をした死神の周波数に共鳴する部分があるように感じる。自我の明け渡しは、自我の放棄に限りなく近く、疑似的な死とも呼べるものかもしれない。生の密度を濃くして行ったとき、円環が一周して死に漸近する、そんな危うげな意味の重なり合いは自分を永遠に惹きつけ続けるqpの神秘。

動機

 社会に向けて言葉を投げる行為をしてみたかった。究極的には自らの心の安寧のために。

 胸の深いところで疼くものがあり、それを人に伝えたくなる。(芸術表現の回路を使ってショートカットするのでない限り、)「それ」はふつう言葉によって引っ張り上げないと伝えられない。深海魚は釣り上げられると水圧の変化によって内蔵や目が飛び出し、変わり果てた姿になるが、言葉を独りよがりに使うとこれと同じことが起こる。

 胸の奥には純化された感覚があるが、その質感を損ねないように言葉に変換するのはいつも難しい。だからこの場を使ってチューニングをしたい。この場で何かを語るというよりも、何か切実な思いを人に伝えたくなったとき、しっかり伝えられる言葉を持った人間になりたいから。そうして、血の通った人間として社会にいることを許されていることを腹の底から感じたいから。

間奏曲 Op.118-2(ブラームス)

この曲は何年弾いてもまだ知らないことを教えてくれる。自分はこの作品を孤独のうちに充足した安らぎに至る旅と思っている。それは究極、「人は皆死ぬときは一人なのだから、孤独の中にあっても自らの心臓が暖かく満ち足りていることを知らなければならない」ということなのかもしれない。最期の鼓動の一打ちに、その人の旅が連れてきたすべての温もりが収斂していくのを歌えたら。

未来のための呪詛

 安直に愛や未来を幻視しない。期待を捨てたときに来る静寂を知る。自己本位な虚像は未来も今も食いつぶす。少しはリアリストになれ。それができないのなら何か具体的なモノをつかもうとするのをやめろ。

 聞き上手で、周りの人間や自分自身の小ささ醜さと向き合ってなお朗らかな、強くて憧れの人だった。決して清く正しくはないけれど、自分自身のどうしようもなさに自覚的なところがこちらの心を安らがせた。きっと彼女はこれからも沢山の人を(精神的に)抱擁し抱擁され歩いていく。末永くその人の隣に自分を置く未来を幻視しそれを伝えたことで、2人の間に本当にあったものはきっといくらか台無しになってしまった。枷をつけられた現実が常に遅々として進まぬうちに、重みのない虚像は遠くまで行きすぎた。

 軽い気持ちではなかったから、その人を思って随分と暇を潰した。今もこんな呪詛を綴って暇を潰さないと立ち上がれないので、床に寝そべって顎をフローリングにつけてキーボードを打っている。いい歳をして本当にどうしようもない男。自分がLineを見た地点から3m離れた床に蹲っているうちにたぶん箱根路は20kmくらい進んでいる。

 すぐに穴から出ようとして手の届くものにしがみついても同じことを繰り返すだけ。いい加減暫く穴の底に座り続ける決断を。本当の出来事は期待を捨てた時に気まぐれに現れるものだし、そのような形でしか現れない。